りえの介護記録・その3「父とのケンカ」救急搬送で再び救急隊員さんと出会う

こんにちは、りえです。

父と母の二人の要介護者をかかえて、1人頑張るアラフィフのバツイチりえです。

頼リになるのは、成人してる可愛い娘です。
娘にもりえと同じ日が来るかも知れない。

その時には、きちんと準備しておこうと思います。

さて、母が入院して始まった介護生活。
父との半同居生活も2ヶ月目の出来事です。

父との些細なケンカ

祖父
もう理由は何とはわからないけど、きっといろんなことがイライラしていたんだと思う。
父は1年ほど前から、前立腺肥大で尿道に管を通していました。

経過を見て、2週間ほど前に内視鏡で前立腺のレーザー手術をしたところでした。
この手術も、そのための父の入院も母が脳梗塞で倒れる以前から決まっていたことでした。

入院の為の準備は、母が全てしていました。
持ち物や入院申込書、入院一時金など全てがひとまとめにセットしておいてありました。

カレンダーにも入院日の記載がありました。
父の手術に関しては、私も心の準備ができていました。

母からも父が手術する予定であること、入院の為の保証人になって欲しいと事前に言われていたので、知っていました。

突然の母の入院と父の決まっていた入院。

ひと月の間に両親がふたりとも入院しました。

母の病院と父の病院と二つの病院を掛け持ちしていました。
大変でしたが、おかげでこの期間だけは自宅でゆっくり眠れました。

父は10日間の入院後、退院しました。
この入院の日程が、変更されていた事を母が知らなかったという問題も発覚したのですが、それはまた別の機会に書きます。

前立腺肥大の手術のおかげで父の排尿は、順調に回復しつつありました。 多分。

認知症のため、排尿の記録と経過観察が入院中も十分に出来なかった事。
ときどき下着に血がにじんでいたのが気になっていた事を除けば、順調だったと思っていました。

排尿時に「痛い」とか「出血している」とか、「いつから調子が悪い」とか要領を得ない父の様子にイライラしてしまったのです。

いろんなことで、疲れがたまっていたのだと思います。

私は父の様子に本当にカチンとしてしまい「帰る!」と言い残し実家を出て電車に乗ってしまったのです。

父の「痛い」「エライコッチャ」
「痛い痛い」
の声がする中、怒りが収まらずひどい娘です。

電車の改札を通りホームで電車を待ちながら、夜風に当たって頭を冷やしました。
電車には乗りませんでした。
10分後、気持ちを鎮めてから帰宅。

トイレから父の寝室まで、点々と血がしたたっていました。

トイレは、血だらけでした。

一大事です。
びっくりしました。

レーザーで焼き切った、塊がのこっていて尿道に蓋をしてしまって尿が出なくなってしまったらしいです。

手術をしてもらった病院が、自宅から1時間もかかる遠い病院だったのです。
病院に電話をして容態を説明し、すぐに処置をしてもらうことになったのですが、痛がる父を連れて電車では行けそうにありません。

車もありません。

病院も「救急車で来てください」と言われましたので、申し訳ないと思いながら救急車を呼びました。

救急車の中で不機嫌な父はずっと「早く病院へ連れて行け!」「まだかー!」と叫んでいました。
「近くの病院に行ったらいい!」と駄々っ子のように叫んでいました。

相当な痛みに耐えかねてでしょうが、父を置き去りにしたことに反省しかないりえでしたが、あまりの駄々っ子ぶりに笑えてきました。

自分で選んで、遠くを承知で通っていた病院だろうに、そのことも認知症のせいで覚えていません。
いちいち突っ込みたくなるほどのうろたえぶりでした。

搬送後、たまたま当直が主治医だったラッキーな父。
適切な処置のあと、またもや入院することになったのです。

その頃には日付が変わってしまい、終電を逃したりえは近くのビジネスホテルに宿泊することになりました。

父と救急車に乗るのは、人生で二度目です。
一度目は、りえが20代前半だった頃です。

心臓が痛い!と大騒ぎして自分で救急車を呼んで、着替えも済ませて意気揚々と乗っていきました。
元気な病人でした。


夜中の2時に叩き起こされたりえは、父と一緒に救急車に乗りました。
狭心症かと思ったら、別の病気だったとかで点滴して2時間くらいで帰宅しました。

早朝で交通機関も動いていないので、りえと父を当直帰りのお医者さまが自家用車で家まで送ってくださいました。

りえはそのまま出勤しました。

確か、寝不足で棚卸しの残業の日という悪夢の記憶が蘇りました。

そんなことを思い出しながら、1時間救急車で病院に向かいました。

父の乗った救急隊は母を運んだ救急隊だった

救急車2

りえは救急隊員さんからの電話で、母の急変を知りました。
自宅に貼ってあったメモから、りえに電話をかけてくれたのも救急隊員さんでした。

要領を得ない父の様子から、最悪の事態を回避してくれたのはこの方達のおかげでしょう。

母がその後どうしているのか?とても気にかけてくださっている様子でした。

今は、意識も戻り食事も取っていると伝えました。
当時の母は順調に回復し、リハビリも頑張っていました。

3秒くらいは立ち上がる事も出来るまでに回復していたのです。

車椅子から自分でトイレにもいけるのではないか?
そんな希望を持てるような回復ぶりでした。

救急搬送中の騒ぐ父を尻目に、りえと救急隊員さんとは母の話ができて良かったと思いました。

母が生きていて本当に良かったと。

自宅からはとても離れた病院に入院している母ですが、搬送先を相当探してくれたのではないかと思います。
救急隊員さんってとても大変なお仕事ですね。

搬送先が決まらないと出発できないと言っていました。

2ヶ月くらい経っていたのですが、覚えていてくださっていてありがたいと思いました。
それくらい母は危険な状態だったのだと思います。

母には、生命力があるのに違いないと思いました。

生きていてもらわなければ。
命の選択を、私がしない。

どんなときも生きる事を選ぼうと思います。

父の前立腺肥大は治療中

再び入院した父は、1日で退院しました。

現在も経過観察中です。

前立腺の薬をのみ、便秘薬も追加して服用しています。

高齢の父は、たくさんの病気をかかえながら笑って毎日生活しています。

認知機能の衰えは、気持ちを若返らせるのか?

朗らかなのは、持って生まれた性質なのか。

日々、楽しそうです。

徘徊もしませんし、暴言もはきません。

りえの子供のようになってしまった父です。

そんな父を複雑な気持ちで、支えている介護家族です。

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